中国百科検定攻略事典 面白雑耳学
四川の由来テキストによると、東部の四川盆地に兆候に注ぐ4本の「江」(長江に注ぐ川は基本的に「江」と呼ぶ習わし)岷江(ミンコウ),沱江(トウコウ),涪江(フウコウ),大渡河の4つの大きな河があることで四川と呼ばれる。
それ以外にもいくつかの説がある。
| 中国百科検定攻略事典の面白雑学の目次ページに戻ります。 |
三線建設
三線建設とは冷戦時代の1960年代、全面的核戦争を想定した、戦略的後方基地建設のことである。
三線とは、沿海部、東北部を戦争の危険性が高い一線と位置づけ、戦争の危険性の低い内陸部を三線、その中間を二線とした。中国が全面的核戦争に突入した時、万一沿海部が壊滅な攻撃を受けても、戦争を持続できるよう、内陸部に軍需工場を建設し、沿海部の工場、技術者を、内陸に移転させ、後方基地建設をすすめたのが三線建設であると言われている。
| 中国百科検定攻略事典の面白雑耳学の目次ページに戻ります。 |
「三峡」という名前の由来
三峡とはあの「三国志」の舞台となり、日本人なら知らない人はいないところである。長江の重慶と宜昌という間にあって、クトウ、巫山、西陵の峡谷の総祢である。三峡という名前はここから出た。
陳舜臣の「諸葛亮(下)」によると、関羽を呉の手にかかって殺された劉備は、孔明や趙雲が止めるのも聞かず、怒りにまかせて呉討伐の軍を起こし、結局は大敗を期し、やはり三峡にある白帝城に逃げ込んでそこで生涯を終わっている。曰く、「劉備が諸軍を率いて成都を出発したのは七月のことであった。その年の四月に即位して元号を章武と改めたばかりである。西暦では221年にあたる。 ・・・・・・・皇帝の軍は長江をくだリ荊州との国境にあたる三峡まで進み、白帝城に陣を構えた。三峡とはクトウ、巫山、西陵の峡谷の総祢である。蜀から長江をくだれば、三峡の最初はクトウ峡であり古くから巴蜀の咽喉にあたるといわれ天然の要害であった。白帝城はその峡谷の上にそそり立っていた。」
| 中国百科検定攻略事典の面白雑耳学の目次ページに戻ります。 |
七擒七縦
七擒七縦 (読み:七キン七ショウ) これは孔明にまつわる話である。孔明は五丈原で魏との衝突の前に、背面の憂い(西南夷)を服従させておかねばならなかった。そこで蜀漢軍を組織し、南征軍として南西夷を討つことになった。
この言葉はこの時に生まれた逸話である。以下陳舜臣「諸葛亮(下)」(中公文庫)にあるので参考にする。
詳しくお知りになりたい方は七擒七縦のページをクリックしてください。
| 中国百科検定攻略事典の面白雑耳学の目次ページに戻ります。 |
四面楚歌
これは秦が滅んだ後、漢王劉邦と天下の覇を争った楚の覇王項羽にまつわる話である。楚の王であった項羽は次第に追い詰められ現在の安徽省のガイ下というところで韓信の率いる漢軍に幾重にも囲まれてしまった。時にBC202年のことである。
敵の知将張良は包囲した楚の兵たちに懐かしい楚の歌を歌わせた。項羽はそれを聞いて楚がすでに敵の手に落ちてしまったことを悟った。「四面楚歌」その時に生まれた言葉である。
「楚はすでに漢に取られてしまった。なんという夥しい楚人か」と嘆き、常に彼と共にあった寵姫虞美人や将兵と共に、最後の宴を張った。
「虞や、虞や、汝を如何せん」と歌い、虞美人も和して、「王の意気は尽きてしまったのに、何で私がおめおめ生きておられましょう」と項羽の宝剣を貰い受けると自らの胸を突き刺し自決してしまった。
虞美人の血が滴ったところには回ってきた春、美しい花が咲いた。人々はその可憐な花を虞美人の生まれ変わりとして「虞美人草」(ひなげし)と呼んだ。
| 中国百科検定攻略事典の面白雑耳学の目次ページに戻ります。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿