2016年12月24日土曜日

中国と日本の交流の偉人 鑑真和上

日本と中国の文化交流

鑑真和上
日本と中国の文化交流の歴史は長い。古くは魏志倭人伝に最初に歴史に登場して以来、連綿と続いてきた。当初は一方的に中国から受け入れるだけであったが、やがて日本が中国に影響を与えることも出てくる。
 しかし、文化交流の中でも、仏教の交流は、日本の精神構造の主軸ともなる大きな影響を中国より受け、その恩恵は計り知れない。その中でも、遣隋使、遣唐使などの功績もあるが、鑑真和上を置いて語ることは出来ない。


 揚州・大明寺の栖霊塔(2009-01-01 0:20撮影)
揚州の大明寺の位置と困難を極める渡日
 鑑真がいた中国の揚州と日本の位置関係を明らかにするため、Google mapを参照に願いたい。

揚州は古くから栄え、揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域であった。
 隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、当時の文化の「中心の様相」をなした。 唐代にはアラブ人やペルシャ人が訪れて、すでに国際港としての位置づけになって交易が発展した。

 鑑真和上が住職をしていた「大明寺」はこの揚州にある名刹である。当時既に唐では高僧として高い地位にいた鑑真は、大明寺で日本から来た僧栄叡と普照の懇請を受け、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、743年最初の渡日を敢行する。しかし、唐の朝廷の後ろ盾のない渡日は困難を極め、5回の失敗、弟子の死、自らの失明などに遭遇しながらも、ようやく日本に渡ることができた。実に最初に航海に乗りだして以来11年の歳月が経っていた。

大明寺

栖霊塔(夜ライトアップされると美しい)
大明寺正門 (入場料は外国人50元?)


文化大革命当時はずいぶん荒廃したとのことだが、
現在は国家の保護を受けている





















 
 現在は、信徒による読経会が行われており、その荘厳な響きが寺の境内に響き渡る情景はなんともいいがたい趣を持っている。筆者が訪れた時は、うら若き美しい女性が何十人という信徒の中で一人だけ立ち上がって、読経をリード?しているのを見た時は本当に絵になる様で、思わずうっとりとしてしまった。







鑑真和上の業績

 755年、平城京に到着して孝謙天皇により戒壇の設立と授戒について一切を任され、東大寺に居住した。引き続き東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。その後、日本の各地で登壇授戒が可能となるよう、東西それぞれ、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
 この間何の障害もなくことが運んだように見えるが、実は、鑑真が招聘されたときと、彼が東大寺に入ったときの間には政治状況に大きな変化があり、藤原氏が権力を手中に納めるときに当たっていたため、藤原氏は鑑真のことを快く思わず、陰に陽に嫌がらせを繰り返したとされる。
 759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。この唐招提寺の建立についても先の事情によりすんなりとは進まなかったが、弟子達の献身的な努力でようやく建立にこぎつけている。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

 763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(遷化)した。76歳。
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2016年12月23日金曜日

鑑真和上の偉大な生涯を謳いあげたオペラ「鑑真東渡」の日本公演の最終日迫る!

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オペラ「鑑真東渡」京都公演 をアップしました。
 毎日新聞によると、
「鑑真東渡」 中国の演芸集団公演が12月20~28日の日程で東京、奈良、京都巡回されている。しかし、日程で残されているのは、12月28日京都での公演のみだ。

 時代は中国の唐の時代、唐にあっては、既に高僧の地位に上り詰めていた鑑真和上は、日本の聖武天皇による招聘に応じ、唐朝の反対にも拘らず、日本での布教を決意し、5度にわたる失敗を乗り越え、艱難辛苦の上、さらに失明の憂き目に会いながらも日本に渡り、奈良・唐招提寺を建立した鑑真和上(688~763年)の生涯を描いたオペラ「鑑真東渡」の日本公演が12月20~28日に開催されている。鑑真和上の故郷・中国江蘇省の「江蘇省演芸集団有限公司」からオーケストラ、劇団員あわせて約200人が来日し、東京、奈良、京都で上演する。
 東京公演で鑑真和上役を務める田浩江(ティエン・ハオジャン)氏は世界的なバス歌手。1980年に北京・中央音楽院を卒業。91年にアメリカ・メトロポリタン歌劇場でデビュー以来、世界各地のオペラハウスで活躍し、40役1300回以上の公演に出演している。
京都公演=ロームシアター京都、12月28日(水)、午後6時開場、午後6時半開演。S席=1万円、A席8000円、B席6000円、C席=4000円。

2016年10月20日木曜日

面白雑耳学 1のつく言葉

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1のつく言葉「紅一点」の追加をアップしました。

一網打尽
中国の北宋の第4代皇帝仁宗(在位1022年ー1063年)という人は優れた素質を持った皇帝とされ、その治世は「慶暦の治」と呼ばれている。
 日本では平安時代で、荘園制度にほころびが出ていた時代で、源頼義が前九年の役で活躍していたころに当たる。
 しかしある意味広く意見を求めたために、議論百出し挙句の果ては、廷臣が徒党を組んで、権力闘争を繰り返し、後の権力闘争の原型を残した時代でもある。この言葉はその中から生まれた。
 この仁宗のもとに、清廉剛直の誉れの高い杜衍が首相になった。当時帝が大臣たちに相談をせず勝手に恩賞を下すことがよくあったが、杜衍はこれを嫌い、帝の恩賞を握りつぶして専横をしたため、宮廷の内外から恨みを買っていた。ある時杜衍の婿が公金を横領して客をもてなしたことがあった。これを見た杜衍の政敵の一人は、婿を厳しく取り調べ、数人を罪に落とし、「我、一網打尽せり」と手を打って喜んだ。さすがの杜衍もこれがもとで失脚し、わずか70日の短命内閣に終わった。
 まるで、どこかの国の話しそのまま絵に描いたという感じだが、やりすぎると思わぬ穴を掘られるものだという戒め?と官僚というもの、怠けず、休まず、働かず適当にやるのがその保身の秘訣として、日本でも受け継がれてきて、いまや官僚のDNAに刷り込まれているのではと思わせるはなしだ。(「中国故事物語」 河出書房新書、1971年 参照)


一条鞭法とは
 明の万暦9年、張居正は全国に一条鞭法の推進の命を下した。まず最初に、賦役を合併し、煩雑な制度を簡素化した。各省、府、州、県の田賦と徭役の総量と土貢・地方産物などの項目の徴収を総計し、これを一つにまとめて、統一的に徴収した。ゆえに一条鞭法と呼ばれる。
 ここでの改革の要旨は、税法システムの簡素化と賦役と土地税を統一することにより、税負担の均等化を図ったことである。(「经济简史」外文出版社・中国 2010年 参照)

紅一点
 宋の神宗(1068-1085)に仕え、宰相にまでなったた王安石は、優れた政治家でもあり、詩人でもあり、文筆家であった。彼が作った「石榴の詩」という詩の中に「萬緑叢中紅一点、動人春色不須多。」(万緑叢中に紅一点あり、人を動かす春色は須らく多かるべからず)という一節がある。意味は一面の緑の中に咲く一つの石榴の花の美しさ、可愛らしさを春色第一とたたえている。この外に、紅一点を詠う詩は2首ほどあるが、王安石の作が最初であろうという説が有力である。
 はじめは植物のことであったのが、今ではもっぱら大勢の男性の中にいる一人の女性という意味に使われている。(「中国故事物語」 河出書房新書、1971年 参照)

2016年9月14日水曜日

面白雑耳学: 四川省の「四川」の由来は? ほか数字編

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四川の由来

テキストによると、東部の四川盆地に兆候に注ぐ4本の「江」(長江に注ぐ川は基本的に「江」と呼ぶ習わし)岷江(ミンコウ),沱江(トウコウ),涪江(フウコウ),大渡河の4つの大きな河があることで四川と呼ばれる。
それ以外にもいくつかの説がある。


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三線建設

三線建設とは冷戦時代の1960年代、全面的核戦争を想定した、戦略的後方基地建設のことである。
三線とは、沿海部、東北部を戦争の危険性が高い一線と位置づけ、戦争の危険性の低い内陸部を三線、その中間を二線とした。中国が全面的核戦争に突入した時、万一沿海部が壊滅な攻撃を受けても、戦争を持続できるよう、内陸部に軍需工場を建設し、沿海部の工場、技術者を、内陸に移転させ、後方基地建設をすすめたのが三線建設であると言われている。


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2016年5月9日月曜日

2016年3月 中国「全国人民代表大会」開かる

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中国全人代で明らかになったこと
 2016年4月5日号の日中友好新聞に、今年3月5日から16日まで北京で中国全人代が開かれたことが掲載されています。その中で2016年から20年の経済社会政策の方針を定めた「第13次五か年計画」が正式に決定されたことが報じられている。
 この五か年計画は中国が掲げる5年後の「小康社会(ややゆとりある社会)」の実現に向けてのかなめとなるものです。
現在の中国経済の最大の課題は「中所得国の罠」の克服です。これは新興国が安い労働力を背景に経済成長した後、高度な技術の産業構造に転換できずに経済停滞に陥るというものでロシアやブラジルなどがこの罠に陥ったとされる。
 このため以下の三つの課題の解決が強調されている。

  1. 改革開放政策の堅持
  2. 投資輸出主導経済から、内需主導型経済への変換
    そのため、「供給側の構造改革として」供給側である企業の生産の質やサービス業の質を高めることを打ち出した
  3. 新技術産業への成長を促し、経済成長の新たな原動力とする
具体的には下記のような施策が打ち出されくると考えられる

  • 生産過剰問題の解決を
    鉄鋼や石炭の業界では、生産過剰が問題となり、経営が困難となっている。政府はこれらの企業を合併や再編などの形で淘汰するとし、国有企業改革に踏み込む姿勢を示しているが、ただこの二つの業界だけで180万人、他の業界も含めれば500万人の失業者が出るだろうという予測もされる中、果たしてこれらの労働力をあふれさせることなく吸収できるかが問われている。

  • 貧困対策への対応
    この五ヵ年計画では、現在5575万人いる貧困人口をゼロとする目標が提起されている。今年は貧困対策資金を43%増やして、1000万人の脱貧困化を実現するとしている。

  以上の課題のほか、環境問題、高齢化問題、医療、食品衛生問題などの課題が山積しており、下向きの経済圧力が強まる中、現在の経済成長を如何に維持し、人民の生活を向上させることができるかという、それこそ「中所得国の罠」から抜け出せるか、難しい局面にあるといえる。 

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  (以下筆者の私見) これらの中国の経済変動の影響はすでにわが国にも現れており、中国商品が以前のように安く手に入らなくなったことや日本の労働者も内部で使えるものは内部で賄えという方針に変換し、従来ほどおおらかに受け入れなくなってきていることにも現れている。
 これらの日本社会への変動を日本が如何に受け入れることができるかという問題について言えば、日本の経済は既にゼロ成長となっており、これらの日本にとってのマイナス要因を受け入れるバッファはなくなってきており、その影響はもろにかぶることにならざるを得ない。そしてそれは誰がかぶるかというと、いわずと知れた日本の貧困層である。