日本と中国の文化交流
| 鑑真和上 | ||||||
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日本と中国の文化交流の歴史は長い。古くは魏志倭人伝に最初に歴史に登場して以来、連綿と続いてきた。当初は一方的に中国から受け入れるだけであったが、やがて日本が中国に影響を与えることも出てくる。 しかし、文化交流の中でも、仏教の交流は、日本の精神構造の主軸ともなる大きな影響を中国より受け、その恩恵は計り知れない。その中でも、遣隋使、遣唐使などの功績もあるが、鑑真和上を置いて語ることは出来ない。 揚州・大明寺の栖霊塔(2009-01-01 0:20撮影) | ||||||
| 揚州の大明寺の位置と困難を極める渡日 鑑真がいた中国の揚州と日本の位置関係を明らかにするため、Google mapを参照に願いたい。 揚州は古くから栄え、揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域であった。 隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、当時の文化の「中心の様相」をなした。 唐代にはアラブ人やペルシャ人が訪れて、すでに国際港としての位置づけになって交易が発展した。 鑑真和上が住職をしていた「大明寺」はこの揚州にある名刹である。当時既に唐では高僧として高い地位にいた鑑真は、大明寺で日本から来た僧栄叡と普照の懇請を受け、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、743年最初の渡日を敢行する。しかし、唐の朝廷の後ろ盾のない渡日は困難を極め、5回の失敗、弟子の死、自らの失明などに遭遇しながらも、ようやく日本に渡ることができた。実に最初に航海に乗りだして以来11年の歳月が経っていた。 大明寺
現在は、信徒による読経会が行われており、その荘厳な響きが寺の境内に響き渡る情景はなんともいいがたい趣を持っている。筆者が訪れた時は、うら若き美しい女性が何十人という信徒の中で一人だけ立ち上がって、読経をリード?しているのを見た時は本当に絵になる様で、思わずうっとりとしてしまった。 鑑真和上の業績 755年、平城京に到着して孝謙天皇により戒壇の設立と授戒について一切を任され、東大寺に居住した。引き続き東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。その後、日本の各地で登壇授戒が可能となるよう、東西それぞれ、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。 この間何の障害もなくことが運んだように見えるが、実は、鑑真が招聘されたときと、彼が東大寺に入ったときの間には政治状況に大きな変化があり、藤原氏が権力を手中に納めるときに当たっていたため、藤原氏は鑑真のことを快く思わず、陰に陽に嫌がらせを繰り返したとされる。 759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。この唐招提寺の建立についても先の事情によりすんなりとは進まなかったが、弟子達の献身的な努力でようやく建立にこぎつけている。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。 763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(遷化)した。76歳。 | ||||||
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